2013年6月18日火曜日

諸資料 「その後の大崎氏」『奥州探題大崎氏』

「その後の大崎氏」『奥州探題大崎氏』(伊藤卓二)からの抜粋


■「政宗君治家記録引証記」

一八月十八日蒲生殿中新田城ヲ御請取候巳下之事
真山覚書ニ
一同十九日義隆ハ二十四日御上洛、治部殿御指図候也、先南陽江被相退、
一次ニ古川ノ城被為捕、城主ニ木村弥一右衛門被指置候、大崎ノ大将也、
一次岩手山之城被為捕、荻田三右衛門被指置候、実哉去九月弾正殿御上候ニ、小金田トムクリウノ間ニて御膳時、荻田三右衛門ヲ木村大学ニ成被申候、斟酌被成候由、
一三州ハ野辺澤へ被相退、其後一揆ノ時古河籠城に付御越、又最上へ御帰候也、(下略)

大崎義隆は中新田城接収の翌日に出羽の南陽に移り、同月二十四日に上洛したのですが、その手配をしたのが石田治部少輔三成だったというのです。義隆と石田光成の結びつきは上杉景勝でしたが、大崎義隆への上洛勧告は最上氏との関わりからか上杉氏からもたらされています(上杉景勝書状)。


■豊臣秀吉朱印状

於奥州其方本知行分内、検地之上、三文壱宛行訖、全可領知候也、
天正十八 十二月七日 秀吉公 御朱印
大崎左衛門佐とのへ

大崎氏の所領の三分一を回復するという宛行が行われ、続いて同じ日付で「大崎左衛門佐が罷下について、伝馬廿疋を遣わしてたしかに送届けるべし」という命令が、近江~越中の路次の諸大名に出されています。大崎義隆が帰国するについて路次の安全を保障する命令書で、この扱いは大名と同格のものだったとされています。


■直江兼続条書


一、横大若松江引越候事
一、同源兵衛一類若松江可被相越候事
一、町人・地下人ニよらす、不審ニ候ものをハ若松江可被越候事
一、大崎殿も此方江よひ可申候事
一、須大御家中証人もとられ、可然ものをハ山田参候次而ニとられ、若松江可被相越候事
一、横大手前之米、其外諸道具、能々可被入念候事
右之条々角屋ニ申渡候者也
山城守(直江兼続)
「慶長五年」
十月十六日

大崎殿を兼続の領地米沢に迎えるのは、どういう意図によるのでしょうか。なお同年の「直江支配長井郡分限帳」(『上杉家文書』)には、高二千七百石の大崎左衛門が見えます。直江支配下の長井米沢に義隆が生きていたことを記しているのです。


■大坂氏家譜
(前略)一初代 大坂帯刀秀隆
○大崎左衛門太夫義隆公に奉仕テ、俸禄二百石ヲ給リ候所、義隆公ハ八幡太郎義家公三十一代ノ末葉ナリ、又曰ク足利将軍ノ一族左京太夫家兼、将軍ヨリ奥州ノ守護ニ被任、志田・遠田・栗原・賀美郡玉造ノ五郡ニテ三拾五万石給リ、栗原郡小野村・玉造郡名生村両村ヲ代々居城トス、義隆公ハ切支丹耶蘇教ヲ信仰シ給故ヲ以テ、共ニ信仰被仰付候ニ付、切支丹宗ニ相成居候由成、
・・・・・・大崎滅亡ノ後耶蘇宗ノ故為ルヲ以テ、其ノ罪ヲ糾明シ、死罪ニ可被行ノ所、鮎田大偶守殿旧情ヲ以テ、被為助命候由伝候也、
 寛永十五年十月
(下略)

大崎義隆が切支丹に入信したことは、傍証がないので否定も肯定もできませんが、状況証拠として有名なキリシタン大名だった、蒲生氏郷の客分だった名護屋~会津時代に入信した可能性があります。氏郷は高山右近と親交があり、天正十三年に大坂で洗礼を受けて、レオンと称しました。家臣にも信者が多かったようです。その城下町だった会津若松には元和九年の段階でイエズス会の宣教師が駐在して、周辺地域への布教を行っていました(「イエズス会報告」)し、蒲生領内だった米沢は、その後の上杉景勝時代に幕府の禁教命令をほとんど実行せず、切支丹にとって天国の様相を呈していたということです。大崎義隆が切支丹に触れる機会は沢山あったと言えるでしょう。

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