と、編集部の藤谷宏樹氏にいった。
藤谷氏は、市街地図をひろげた。すぐその一点をみつけた。青葉山台地の北辺(広瀬川)の住宅地域のなかにある。
「なが年、その神社に行ってみたいと思っていたんです」
といって、有名な神社とはいえない。明治政府があたえた社格は、村社にすぎない。
が、江戸期を通じ、伊達家はこの神社は尋常ならず崇拝した。そのことは、五百席ちかい社領だったことや、また藩主の代がわりのたびにこの社に詣で、そのときおそなえとして米一石を献じた、ということなどからも察せられる。政宗が、建立した。
伊達家は、藤原氏である。本来、氏神とすべき神は春日明神であって、八幡大菩薩ではない。
八幡信仰は奈良朝以前からのもので、じつに古い。隆盛になるのは、清和源氏がそれを氏神にしてからのことである。その源氏が鎌倉幕府を樹立してから爆発的にひろまった。神々にも流行がある。津々浦々の神社が八幡社に衣替えするいきおいで、当時、全国に小一万ほどの八幡社があったのではないかと思えるほどである。
室町時代におこした足利氏も、清和源氏だった。もっともこのころになると、九州の倭寇までが船に「八幡大菩薩」と大書した旗をかかげて東シナ海を突っきった。このため明人はかれらを、
「八幡船」
とよんだ。もはや八幡は清和源氏の氏神であることから離れ、ひろく武神になった。
ここで、大崎八幡宮の名の、
「大崎」
について考えたい。
大崎氏は、足利氏の一門である。その一族の足利宗家という者が、下総の大崎を領して大崎を苗字にした。
足利尊氏が室町幕府をおこすと、一門の大崎氏を奥州探題にした。
その所領は、現在の宮城県の北部で、当時の郡名でいうと、加美郡、志田郡、遠田郡、玉造郡、栗原郡の五郡だった。
以後、この五郡をひっくるめた地域呼称として、
「大崎」
とよばれるようになった。探題の苗字であるとともに、地理的な名称にもなったのである。大崎探題といえば、たいそうな権威だった。
いかに権威があったということは『余目氏旧記』という古い記録に書かれている。
「守護(室町期の大名のこと)よりもずっとえらい。守護など全国に掃いて捨てるほど(三十余氏)もいるが、探題は奥州に一氏のみだ」という意味の文章である。原文の一端を紹介すると、
(奥州探題は)しゆご(守護)のうはて(上手)也。かくべつの義也。
というぐあいである。この文章そのものが、奥州人の気質をあらわしている。
「いかにわが家の家格は上であるか」
という家系誇りが、古来、奥州人の通弊であった。あいつはいまは何かで儲けてはぶりがいいが、百年前はわが家の作男だったとか、三百年前はわが家の分家だったなどと言いあい、事実、村落内部にも上下の秩序が厳密で、なにか祝い事でもあると、その順序どおりにならぶ。
「きび(気味)がわるいんだ」
と、画家の風間完氏が、私にいったことがある。風間画伯は、若いころ、福島県の姻戚の家にまねかれ、村の歴々衆のなかで酒をのんだ。歴々衆は潜在的家格に従って列座していた。
このことについては、井上ひさし氏も、山形県の町の例をあげ、似たようなことをユーモラスに説明してくれた。
奥州人である太宰治も『津軽』のなかでふれている。
どんなに勢強きものに対しても、かれは賤しきものなるぞ、ただ時の運つよくして威勢にほこる 事にこそあれ、とて、随はぬのである。
太宰治は、例を一つあげている。日露戦争のとき旅順攻略戦で盤竜山堡塁を奪取して名の高かった一戸兵衛大将(当時・少将、1855~1931)のことである。一戸兵衛は帰郷するときは、郷里の気質を考え、陸軍大将の軍服を着ず、和服にセルのハカマをつけていたという。もし将官の服装で帰れば、郷党のひとびとは、
すぐさま目をむき肘を張り、彼なにほどの者ならん、ただ時の運つよくして、などと言ふのがわ かつてゐたから、賢明に・・・・・・、
郷党の気質を配慮して平服で帰郷したというのである。
むろん、いまの仙台は奥州の一大雄都で、遠い素姓などをせんさくして、おのれは高し、かれは低し、などという弊風はない。しかし伊達政宗のころは、存在した。
そこで「大崎」なのである。
「大崎」
が苗字なのか地域呼称なのか、霧のむこうの山の姿のようにさだかでないところに、権威がある。そのことばをキーにして奥州の風土(もしくは伊達政宗)について考えてみたい。
政宗は、豊臣期に、従四位下、右近衛権少将に任ぜられた。三十一歳である。ときのひとびとは、政宗のことを、他の少将と区別するため、
「大崎ノ少将」
とよんだ。大崎はいわば、ニックネームである。政宗が、そうよんでもらいたいと言ったからそうなったのであろう。
この時期、政宗は、いまの宮城県玉造郡岩出山城にいて、仙台を開府していない。
「岩出山少将」
では、世間はそんな地名を知らない。大崎なら、たとえ上方まできこえないにせよ、奥州人たちなら、雷電に打たれたように畏怖する名である。
伊達家も、政宗以前、奥州探題を称したこともある。ただ太平洋岸に出てくると、ひとびとは大崎を貴しとしている。政宗は、
「大崎ノ少将」
と称することによって、太宰治のいう「かれは賤しきものなるぞ、ただ時の運つよくして」というかげ口を封じたのかもしれない。
政宗は、もともと、いまの県名でいえば、山形県米沢の人なのである。
父輝宗の死後、ふるい豪族をつぎつぎに破り、その版図はいまの県名でいうと、山形県の半分、宮城県の一部、福島県にまでおよんだ。しかし天下人になった秀吉によってはばまれた。秀吉は政宗の斬り取り行為を「私戦」と見、会津その他をとりあげた。
秀吉は、政宗から累代の米沢の地までとりあげ、いまの宮城県をあたえた。政宗は米沢を出て、あたらしい治所の岩出山城に移らざるをえなかったのである。
つまりは、政宗にとっていまの宮城県は、なじみがあたらしかった。くりかえしていうが、このためふるい権威の大崎を自分のニックネームにしたかと思える。
ところで、むかし探題大崎氏が遠田郡の館にいたころ、地元で自家の氏神として大崎八幡宮まつっていた。
政宗は、旧大崎領を自領としたとき、この八幡宮を大切にすることによって、旧権威をひきついだ。その後、仙台に新城を築き、城下町をひらいたときも、わざわざ遠田郡からこの八幡宮を城下にうつした。
しかも八幡宮に、
「大崎」
という地名を冠した。
さきに『余目氏旧記』にふれた。
もう一度ふれる。そこには室町期の奥州での序列が書かれている。意訳してみる。
むろん大崎氏が奥州における絶対者といっていい。他はそれに臣従している。
臣従者としての最も上席は留守氏である。その下に伊達氏、南部氏、葛西氏ら三氏がならんでいてこの三氏は同輩だという。留守氏はエライ。どれほどエライかといえば扇子一本ぶんだという。このあたり表現が、奥州的である。
扇だけ御座あがり候。
政宗は、いまの宮城県のぬしになるについて、旧勢力を臣従化させた。というよりも、かれらの権威(席次)を尊重し、藩内における”大名”にするという他藩に類のない制度をとった。そうとでもしなければ、太宰が『津軽』においていうように、
「彼なにほどの者ならん、ただ時の運つよくして」
と、肘を張られてしまう。政宗といえども、そういう奥州的事情をそうすることもできなかった。この政宗の藩体制が、後にわざわいした。仙台藩は江戸期を通じ、新規については一度も意見統一ができず、幕末においてはこわれた巨大機関車のように身動きとれなかった。いまなお、たとえばこの市の市民局長村上芳朗氏をして、
「仙台藩は私どもに何を残してくれたのでしょう」
とつぶやかせ、ついてに加賀(石川県)藩の遺産を生かしている金沢市をうらやませているのである。
「大崎」
ということばは、それほどの象徴性をもっている。私どもは、その八幡宮についた。
参道は、街なかでありながら、古い杉木立にかこまれていて、杜にちかい厚味がある。
八幡宮だから、社殿も八幡造りだとおもっていた。八幡造りは、そのルーツである宇佐神宮(大分県)の建物でもわかるように、屋根に反りがあり、本殿と拝殿が相接している。ぜんたいとしては、白拍子の舞い姿のようにすがすがしいものである。
が、大崎八幡宮は、頭からそういう形式を無視していて、ずっしりとした桃山風に統一されていた。
というより、秀吉の桃山風をのこしつつ、そのつぎの時代の権現造りのほうにちかい。権現造りとは、家康をまつるために造営された日光東照宮を典型としている。ただしこの大崎八幡宮は東照宮よりも二十年以上前の建立である。さらに見ると、そのいずれにも見えぬ独自の形式のようでもある。
むしろその前の時代、秀吉を葬った京都の阿弥陀ヶ峯の豊国廟の建築と血縁があるだろう。ざんねんながら豊国廟は徳川幕府によってこわされて、いま見ることができない。見ようと思えば、京都の北野神社か、この大崎八幡宮を見てしのぶしかない。
「いいお宮にきましたな」
藤谷氏をふりかえると、かれはもう拝観券を買おうとしていた。
私どもは、この八幡宮が「御長床」とよんでいる横長の建造物のなかにいる。このむこうに拝殿・本殿がある。
御長床は、大名屋敷でいえば長屋門にあたるだろう。屋根はやわらかなコケラぶきである。中央が受付けになっていて、体格のいい五十年配の神職さんがいた。
御長床をくぐると、正面が拝殿である。
単層の入母屋造りで、基本としての形はかるやかで簡素でありつつ、中央の華麗な千鳥破風が重心になって、華やかさと重味をもたせている。みごとな設計といっていい。
「よくできた」
と、政宗の声がきこえるようである。
本殿が、いっそういい。もともと権現造りは造形性に富んだもので、一ツ屋ねから棟数を多くするのである。このため、
「八棟造り」
などとよばれたりする。八つは、単に多いということの形容である。
この場合、拝殿は西洋建築が重視するところの正面(顔)をなしている。じつをいうと、大崎八幡宮では拝殿とその奥の本殿とは組みあわされていて、一個の造形になっており、拝殿は事実上、顔として設計されている。これは権現造りの特徴なのだが、ひょっとすると、ポルトガルやイスパニアの聖堂のカタチが言語化されて権現造りの成立に影響をあたえているのかもしれない。明治以前の日本建築で、正面の感覚を濃厚にもつのは、権現造りだけであるともいえる。京都の北野神社などもみごとな正面をもっている。
私どもは、黒うるし塗りの階段をあがった。欄干の要所要所に黄金の金具がつかわれていて、配色としてうつくしい。
なかは、青々とした畳敷きである。つい、すわってしまった。
まわりが、黒い鏡のようにかがやいている。板戸がみな豪華な黒うるしなのである。欄干から天井にかけては、過剰なほどに多様な彫刻でかざられている。
こういう装飾過剰な傾向は、私は日常人としてすきではない。しかし歴史の空間のなかに入ると、気分は別である。いかにシンプル好きの人でも、パリのノートルダム寺院をみてhどが出るなどとはいうまい。またギリシア彫刻の女たちは肥りすぎているといって怒りだす人もない。過去は過去に語らしめるべきで、十六、七世紀においては、装飾的彫刻の過剰こそ荘厳を生むと信じられていたし、工匠たちは時代の好みのために懸命に腕をふるったのである。
畳の上にすわりながら、十六、七世紀の装飾過剰の建築(前期・後期桃山風)が、秀吉の好みによるものであったにしても、外国の影響もあったろうということについて考えた。
私はずっと明末の建築の影響だとおもっていた。しかしこのごろ考えがかわった。
これもやはり南蛮風だったのではあるまいか。
以前『南蛮のみち』のザヴィエル城のくだりで、日本の近世城郭における天守閣はやはりポルトガル、イスパニアの城砦の影響だということをのべた(第二十二巻)。安土城は築くにあたって、織田信長が、宣教師たちに、西洋の城砦はどういう構造か、ということをきき、天守閣を着想したのにちがいない。
むろん、信長や秀吉、あるいはその工人や画人がヨーロッパへ行って現物を見たわけではない。言語を通してさまざまに想像したのである。さらには、模倣しようとしたわけではなかった。信長や秀吉、あるいはその工人、画人に、ヨーロッパ崇拝はなかった。ただ異文明を知ることは、自分を新鮮にすることだということを知っていた。正面の重視といい、装飾過剰といい、どこかヨーロッパの聖堂建築を連想させるのである。
伊達政宗は、秀吉の伏見城下に屋敷をもった。その屋敷はむろんのこっていないが、おそらく政宗らしく豪華なものだったろう。その工事で、政宗と京都の工人たちとの結びつきができた。
ここで仙台城のことが挿入されねばんらない。
仙台城の築城は、関ケ原ノ役の直後の慶長5年(1600)12月からはじめられた。とくに大広間の設計施工にあたった工匠は、京都でも有名な人達だった。
かれらはそのあと、松島五大堂や大崎八幡宮をつくった。この神社の棟札に、
「御大工」
とあって、日向守家次と書かれている。大工が最高位である。棟梁がこれに次ぐ。棟梁は刑部左衛門次、同梅村三十朗頼次である。
このあと、境内を一巡した。
木立のなかに、摂社や末社が、いくつか鎮座している。そのなかに、インドの神もおわした。
「大元師」
という金文字の扁額がかかっている。
祠の前の白塗りの柱に、江戸中期の賢君だった伊達吉村(1680~1751)が造営したものだと書かれている。大元師というのは密教に取り入れられたインドの土俗神だが、神異のおそろしい存在だとされていた。体は黒青色で、四つの顔と八つの腕をもち、国家の鎮護と怨敵の退散をつかさどる。密教の修法として「大元帥法」というものがあり、修法をする僧たちは、古来、帥の字は音読しない。音読するとおそれがあるとされるのだろうか。
伊達吉村の一代、仙台藩は財政窮迫し、参覲交代の費用にも事欠き、破産状態にあった。それでも吉村は民から搾ることをせず、冗費をきりつめつづけた。この危機感から大元帥を信仰するようになったのかと思える。
ところで、扁額の金文字は、
「大元師」
となっている。御長床にもどって、先刻の神職さんにたずねてみた。神職は、容貌と雄偉な体格は綱淵謙錠氏に似ていた。底力のある声や、謙虚さ、それにユーモアの感覚までそくりだった。
―覚られたか。
といったふうに、言葉も発せず、ただ背をそらせて謙虚に笑った。そのくせ、大声だった。つりこまれて私も大笑いした。笑いながら、
(いま東北にいる)
という感動があった。こういう人柄は、東北以外の地にめったにいない。
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