「大崎氏について」『仙台領の戦国誌』(紫桃正隆、宝文堂)
南北朝期には、葛西、伊達、南部などの諸豪族は「南朝方」であり、大崎、最上氏は「北朝方」であった、とはさきに述べてある。
所で、第二次世界大戦を中心として、いわゆる戦前派としての教育をうけた人々は、”南朝方は忠臣””北朝方は逆賊”なのだと、脳漿(のうしょう)にしみ込むくらい徹底的に教え込まれた筈である。
このため、大崎地方とか、最上地方の人々の中には肩身のせまい思いをした方もあったのではなかろうか、とも想像される。
果して、南朝方は忠臣で、北朝方は逆賊であったか―。
この表現は、後世の史家たちの、しかも天皇中心主義の史家たちの手になるデッチアゲみたいなものであることは言うまでもない。
その当時(南北朝)の豪族たちは、どのような考えのもとに去就を決めたのか―そこまで思いを致すとき、それは別に、忠臣とか逆臣とかに関係のない、二つの大きな勢力争いという渦中に巻き込まれた宿命みたいなものであることが判る。
何しろ南朝方、北朝方にそれぞれ天皇が擁立されていたのである。この二代勢力のいずれに味方しようと、たとえ忠臣といわれても、逆臣と謗られる理由は、少しもないわけである。
別な言い方をすれば、北朝方に味方した豪族たちは、今日逆賊よばわりされているのを知ったなら、「はて妙なことを・・・・・・」と首をかしげることであろう。
北朝の巨魁、足利尊氏にしたところで、源氏の正統を自負するの余り、後醍醐天皇に敵対したのであるが、別に天皇を亡きものにして、自分がそれに代らうとしたわけではない。
”建武の新政”の失敗もあったようだし、事実、鎌倉幕府討伐の功労者であるべき武士達への”恩賞も少なかった”し、武家に対する”番犬思想”が未だ改められていなかったようでもある。
このような武士たちの不平不満が、尊氏を中心として爆発し、武家政権の復活運動へ踏み切らせたものなのである。
源氏の血を引く尊氏にとっては、天皇その人よりも、側近の公家とか、それにゴマをする地方豪族達に対する憎しみが、むしろ大きかったのではあるまいか。
尊氏は京都に入り、持明院統の光明天皇をたてて、いわゆる北朝政権を樹立するのである。尤も、天皇が存在すると言っても、実質は足利武家政権のカイライに過ぎない北朝派と、天皇の主権の回復を目的とした南朝派とは全く意味が異なるが―。
何れにせよ、後世に於て逆賊の見本のように批判された尊氏にしても”天皇制の尊厳”に対しては、絶対的にその一線を確守していたのである。
この”二つの朝廷”に盲従して、それぞれ己れの所領拡大のために相争った地方豪族の如きは、「何が何だか判らないが、とにかく勢いのよい方についた方が間違いなかろう」ぐらいにしか考えなかった。
よく南朝側の武将たちを、「正■(注)の理義を明らかにして」とか「大義名分のために」といった言葉で掌揚しているが、これなどは後世の史家達の粉飾用語でしかない。
(注)門構に壬
今日(注)を例にあげるのはどうかと思うが、世界は今アメリカ、ソ連の、いわゆる”東西の二大陣営”によって、その地図の色をぬりかえられようとしている。
(注)昭和四十二年当時
その二つの国に同調するもの、何れが忠臣で何れが逆臣か―今そんなこと判る筈がない。
数十年後の結末によって、後世の人達の口から、どちらかが忠臣だとか、逆臣だとか、言われるだけの話なのである。
北朝(足利方)の主流派であった「大崎氏」とて、所詮はこの例でしかない。
一方の天皇方について、自分の権勢の伸張と所領の拡大のために、北朝の”番犬”として、南朝側の”番犬”と戦ったに過ぎない。
「大崎氏」が逆賊よばわりされる理由はどこにもないのである。